プロゴルフの世界では、年に4つのメジャー大会が開催される。マスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロの4大会。メジャーで優勝することはプロゴルファーなら誰もが夢見る偉業だが、勝てそうで勝てずに惜敗ばかりを繰り返すプレーヤーは数多く、優勝争いどころか、メジャー大会に出場すら叶わない選手も多い。そう、実を言えば、プロゴルファーとして報われないまま、キャリアを終える選手のほうが圧倒的に多いのが現実なのである。
そんな中、マスターズを2度も制したメジャーチャンピオンでありながら、プロゴルファーとしての大成功をひけらかすのではなく、「僕はプロゴルファーとしてではなく、一人の人間として夢を抱きたい」と言い切る個性的な選手がいる。
「あなたは何者ですか?」と問われたら、「僕はプロゴルファーです」と答えるのではなく、「僕はバッバ・ワトソンという名前の人間です」と答えたいのだと彼は言う。
「だって、そのほうが、ゴルフという1つのフィールドだけに縛られることなく、いろんな可能性が広がるから――」
2016年にノーザントラスト・オープンを制し、米ツアー9勝目を挙げて優勝会見に臨んだワトソン(photo: 舩越園子)
社会貢献、家族愛
ワトソンは米フロリダ州のバグダッドという小さな田舎町で生まれ育った。父親がグリーンベレーと呼ばれる陸軍特殊部隊の将校だったこともあり、ワトソンは幼いころから愛国心に溢れていた。そのスピリッツが、国への愛のみならず、人間愛にも発展していったのだろう。彼は昔から社会貢献やチャリティにとても積極的だった。
ハリケーンなどの自然災害で大きな被害が出たと聞いたら、それが米国内であっても世界のどこかであっても、ワトソンはいつもすぐさま寄付を申し出た。
2011年3月に東日本が大震災に見舞われたときも、そうだった。
当時、米ツアーで戦っていた日本人選手は今田竜二ただ一人。今田が「僕の母国が大きな被害を受けました。みなさん、日本を助けてください」と手書きのメッセージをロッカールームに貼り出すと、誰よりも先に今田に歩み寄り、黙って小切手を差し出してくれたのはワトソンだった。
愛妻アンジーと大学時代に知り合ったワトソンは、彼女が子供が産めない体であることを承知の上でデートを重ね、結婚し、そして特別養子縁組を何年間も申請し続けた。
2人の想いがようやく叶い、生後間もなかったカレブくんがワトソン夫妻の長男としてやってきたのは2012年の春。その直後にワトソンはマスターズで初優勝を遂げ、カレブくんの世話に追われて試合会場に来ることができなかった妻の代わりに母親の胸に抱かれて号泣した。
2014年には2度目のマスターズ制覇を達成。その年、2人目の養子縁組も叶い、長女ダコタちゃんが家族に加わって、ワトソンは「本当に幸せだ」と喜びを噛み締めた。
優勝直後、愛妻アンジーの腕からダコタちゃんを抱き上げ、ともに喜びを噛み締めたワトソン。手前はベビーシッターに抱かれているカレブくん(photo: 舩越園子)
故郷の市長になりたい
尊敬していた父親を2010年に咽頭癌で失ってからというもの、ワトソンは亡き父の魂を自分が受け継ぎ、活かしたいと思うようになった。
「父は国を守ってくれた。だから僕は故郷を守る」
38歳になったワトソンは故郷の町バグダッドを擁するフロリダ州ペンサコーラ市郡の市長になりたいと言い出した。
「僕が市長になって、故郷にできる限りの恩返しがしたい」
そう願い始めたワトソンは、ついに具体的な行動を開始した。市内に、まずは自身の名を冠したアイスクリームショップ『バッバのスイートスポット』をオープンさせた。
「大人も子供も、アイスクリームが嫌いな人なんて、いないだろう?」
『サンディ&バッバのミルトン・シボレー』という名の電気自動車関連のショップも開き、さらには彼自身が大好きなミリタリーグッズのショップ『ロボティック・カンパニー』も開設。そうやって、みんなが楽しい気持ちを味わいながら市内の経済活性化が図れるよう、彼なりに工夫を凝らした。
「教育こそが子供たちにとってのすべての始まりだ」
そう信じるワトソンは、今後は教育関連事業にも力を注いでいくつもりでいる。ゴルフ場や大型居住施設を建設する事業にも、すでに出資を含めた協力体制を取り始めている。
メジャー2勝を含む米ツアー通算9勝の強者。ピンク色のドライバーを一振りすれば、300ヤードを軽々超える屈指の飛ばし屋は一人の人間としての行動も豪快で魅力的だ。